明治に入って、教育の門戸が開かれたとはいえ義務制でないこと、あるいは女子教育不要、さらに加えて授業料が有料であったことなどの事由などで就学率は極めて低かった。この期の青年は、昼は野良仕事に精を出して良く働いていたが、夜は賭けごと、飲酒など、目的のない不健全な環境におかれていた。青年の悪弊の排除と国民皆教育の理念の推進を図るため、小学校教育の普及徹底とその補充のねらいとして、しかも青年たちの風俗矯正にあたることなども重視した。青年夜学が生まれたのは明治前期のころからであった。このことは昔ながらの部落青年の集いである若連中、若い衆、などと呼ばれた組織に代わる、新しい青年団体である青年会の結成とあわせて生まれてきた現象である。青年教育の動きが一般に青年会という団体組織として育成指導されるようになったのは、日清戦争後、特に日露戦争以降であった。内務省及び文部省などの積極的な指導奨励もあって、全国的に青年会の組織化が進み、明治四三年、わが国における最初の「全国青年大会」が名古屋で開催され、この大会で青年団規一二則が採択されている。