江戸時代末期に始った緒立鉱泉には日増しに参詣を兼ねて水浴に訪れる人が増えて来た。そこで地元の人々は、簡単な水浴場を作った。ただ、水を暖める設備がないため、わざわざ遠方からきても湯治ができず、寒いときは入浴もできなかった。冷水を暖めてほしいという要望が強く、地元の人達が試験的に冷水を暖めてみたところ、成果が上々で、冷水は温泉に変わり緒立鉱泉が始った。近隣から湯治客がおしかけ、その数は明治初期には年間一五〇〇にのぼった。明治一〇年に県知事あてに提出した冷泉場反別取調書には大量の薪が使用されていると記されているので、そのころすでに水浴から温浴に変わっていたことがわかる。明治二三年の新聞に次ぎのような記事が掲載されている。緒立の八幡社地にある緒立鉱泉は、今より廿八年前に発見せるものなるが、其節庄屋役の発意にて、社地前へ五戸丈の旅篭営業を許し右鉱泉場を設けしに、近村より入浴するもの追々あり何れも全治するもの多かりしより、之を聞き伝えて数千里外まで評判高くなり日に増し入浴人多し、本年に至って一層浴客を増やせるという。この記事によると、明治中期に皮膚病にきくと評判が高くなり、近隣から湯治客が増え、五軒の旅館と浴場が設けられ、湯治場として整備されてたことがわかる。