小舟に櫂があれば営業できる渡し船と違い、多額の資本を投じてかけられる橋の渡し銭が高くなるのは当然だった。そのため、架橋者と利用者の間で橋銭についていざこざがしばし起った。宝永橋の橋銭についても次ぎのような苦情があった。宝永橋がかかる以前に渡し船があったが、その船賃と比較して橋銭が高かった。渡し船なら、一戸当たり渡し船賃として年米一升に麦二升を渡し守に出せばよかったのが、橋になってからは、わたるごとに七厘ずつ払わなければならなくなったのである。これに耐えかねた鷲ノ木や笠巻の人々は橋銭値下げを何度となく談判した。しかし、一向に取り上げられなかったため、鷲ノ木や笠巻の人々は橋を渡らない事、つまり大野方面へ行かない事を申し合わせたのである。困った大野町では重立ち衆が架橋者に橋銭下げについて交渉した。明治三年の新聞には、前記のように鷲ノ木などの住民が大野の市へ野菜などを売りに行かない事を決めたため、青物の入荷がほとんどなくなり、大野の六斎市が衰退して住民が困っているという記事が載っている。