政府は、明治五年に全国津々浦々まで郵便制度を広げるため、各府県から郵便網の計画を提出させました。新潟県令楠本正隆は駅逓頭前島密に、明治五年八月六日付で第二次の開局計画五一か所を申請しました。同計画に大野は戸数も有り、商人も多分有り、信書の数も可数有り、切手高弐捨円御渡可候と在候とあり、同年一〇月に大野郵便取扱所が開設したものと思われます。明治六年四月一二日に前島駅逓頭が、県下の郵便取扱所が多く、ただ出納が入り交じって実功がないので加減するよう楠本新潟県令に文書を出しました。これを受けて、同年四月二〇日新潟県郵便掛は告示を出して五月一日をもって三九の郵便取扱所を廃止しました。明治一一年から一三年の三年間に大野郵便局の切手販売量は二倍強、郵便物取扱量も発行数は約二・五倍、着信数は三倍近い伸びを示しており、短期間に郵便制度が普及したことが分かります。明治一一年に四等郵便局、明治一九年に三等郵便局となりました。三・四等郵便局の局長は町の資産家であり、郵便業務を請負って、自宅を局社として営業してました。
食料品などのお金や物価の上昇などにより家計管理が非常に難しい時代が到来したといえます。好景気と言われて久しいのですが、ほとんどの家庭のお金や家計は非常に厳しいのが現実のようです。お金がなく家計が火の車ともいえる状態がほとんどだといえます。家計簿をつける家庭も増加傾向にあるようです。
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